千人に一人の孤独
本は売れれば売れるほど良いーーそのように思われがちだ。
村上春樹は、『ノルウェイの森』がベストセラーになったことについてこう述べている。
「小説が十万部売れているときには、僕はとても多くの人に愛され、好まれ、支持されているように感じていた。でも『ノルウェイの森』を百何万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独になったように感じた。そして自分がみんなに憎まれ嫌われているように感じた」
単純計算になるけれど、国内で読書できる人口を一億として、売れた部数をそれぞれ一人が読んだと仮定する(つまり、古本屋で購入したり、貸し借りしたり、あるいは同じ人が何冊も持たないということ)と、十万部売れたということは十万人が買って読んだということであり、百万部売れたということは百万人が読んでくれた、ということだ。
そのように考えると、村上春樹は、千人に一人くらいなら自分の感じた孤独に共感してくれると考えていたのだろうが、桁が一つ増え、百人に一人共感できるような孤独だとは思えなかったのではなかろうか。*1
そのような深い孤独を描いていてなお売れたということは、『ノルウェイの森』は丁寧に読み解かれ、愛されているのではなく、ただ流行に流されて、売れているから買った、お洒落だから買った、知り合いが買ったから買った、というような、およそ内容とは程遠いものによって『ノルウェイの森』は購入されたことになる。それこそが、みんなに嫌われ憎まれているように感じた、と村上春樹に言わしめたのだろう。
人は誰しも理解されたがっている。
しかし、それにはちょっとした但し書きがつく。
すなわち、『理解されたいように理解されたい』というものだ。
自分の中にある理解されたいもの、というのはひどく微妙なかたちをしていて、人はそのかたちにぴたりと当てはまるように理解を求めているのだ。そこから飛び出してしまったり、シンプルに切り取りすぎて大切なニュアンスが抜け落ちてしまったり、あるいはその図形よりも小さすぎたりすると、人は理解されていない、と感じる。
そしてきっと、表現欲というものは、そのかたちが複雑で微妙であるほど強くなるものであり、だからこそ理解されたいと万の言葉を尽くしたり、細密に絵筆で塗り分けたり、楽器を奏でたり歌ったりする。
書き上げてからある時点までは、多くの人に愛されるものではないにせよ、出来としては納得のいくものだったのだろう。やれることはやった、と。
だからこそ、自分の思惑を超えて売れすぎてしまったことは、自分の言葉が正しく伝わっていないと感じたのではなかろうか。
まったく異なる言語を用いる異星であればきっとそこまで孤独を感じはしなかったろう。同じ言語を用いているにも関わらず、相手を理解できず、そして理解されないというのは酷く孤独を感じさせる。
孤独には大別して二つの種類がある。
ひとつは、周りに誰もいない物理的な孤独。
ふたつめは、周りにはうんざりするくらい人がいるのに、にもかかわらず感じてしまう精神的な孤独。
村上春樹は後者の孤独を描く作家だ。
しかし、皮肉なことに、『ノルウェイの森』を世に出したら、それをかえって浮き彫りにしてしまったのだ。
百人に一人の孤独と、千人に一人の孤独。
数字にしてみれば、たったひとつ0が増えただけなのに、その0は忌々しいほど、人とつながることの難しさを伝えてくる。呪詛のように。
試しに『ノルウェイの森』に関して人に感想を訊ねてみるといい。
部数的には百人に一人は持っているはずだが、その多くは読んでもいないだろうし、読んでいたところでまともな感想は返ってこないだろう。
よしんば答えられたとして、エロいとか、よくて哀しいといったところか。
かくも、他者から理解されるということは難しい。翻すのなら、人はそこまで他者を理解しようとはしていない、ということでもある。
理解できることを理解できる範囲で。
それのどこが他者理解なのか、僕にはさっぱりわからない。そのように思う。
*1:それは自惚れとかそういうのとは別に、実体験から得た洞察として、千人に一人くらいなら、と思ったのだろうし、逆に百人に一人となると多すぎると感じたのだと思う。