思考の揺りかご

あるいは無意識の輪郭を探っていくこと

真楠『るいるい』(全2巻) 廃墟美、それは消え去る前にのみ存在する儚き美にして、古いがゆえに喚起させられるかつてへの憧憬。

 

朝佳高校には桜の咲き誇る中庭の横に旧部室棟がある。

築数十年と思しきその老朽化した建物には、当然のように人影はなく、硝子の割れた窓からは、散った桜が無遠慮に舞い込んでいた。

 

ふと見れば、美少女の姿。

友人にそのことを伝えても、あんなボロい建物に人がいるわけないだろ、と信じてはもらえず、ひとり足を運んでみた。

ガタついた木製の扉を開き、中に入るとやはり、居た。美少女だ。見間違えではなかったのだ。

 

声をかけると、驚いた様子で転んでしまう彼女。どうやらドジっ娘らしい。

「何してたの? 要もないのに、こんな所入ったら危ないんじゃない?」

自分のことは棚に上げ、疑問に思ったことを訊ねてみる。はたして彼女は、どこか夢みるように答えた。


「…綺麗だったから、見てたの」


近くに桜の樹が植えられていることを思い出して納得しかけるも、返ってきた言葉は意外なもので、
「この建物が…」

と彼女は云った。


何処が綺麗なのかさっぱりわからず、私は愕然とする気持ちを隠すように愛想笑いを貼りつけながら云った。

「ちょっと私には分からないかなぁ?」
理解を得られなかったからか、肩を落とした彼女は不意にキョロキョロあたりを見回して、

 

「うん、きっと時間が悪いんだよ!」


とズレた回答をするのだった――

 

るいるい 1 (コミックブレイド)

るいるい 1 (コミックブレイド)

 

 

るいるい 2 (コミックブレイド)

るいるい 2 (コミックブレイド)

 

 

 

【プレビュー】

 

先日、

か、買ってしまった…… - 思考の揺りかご

のエントリ内で、〈旅行を愉しむ視点〉、〈旅人の視点〉が得られるような本が何か無いかなーと書きました。今回はそれをもう少し拡張して考えてみます。

 

フェチってあるじゃないですか。おっぱいや太もも、といった身体の一部分や衣服に対する執着であったり、特定のシチュエーションや行為なんかにも用いられたりするアレです。

フェティシズムの意味を調べてみれば、必ずと言っていいほど呪物崇拝、なんてワードが目に付いたりしますが、まあ、人類学や宗教学はちょっと遠いですよね。となると、性的倒錯やら変態性欲といった領域の話になるのでしょうか。

いや、フェティシズムとフェチは微妙に違うように思います。

日常で用いられる「あんたってMだよな」というSやMくらい違う。*1

単に短くて言いやすいからフェチ、というのではなくて、フェティシズム、というと生々しいからフェチという言葉が用いられているとでも言えばいいのでしょうか。しかし、フェティシズムではなくフェチであったとしても、それを極めた人たちがいます。この極めた、というのは条件があって、

①膨大な量を消費している

②それらの差異について言語化できる

といったもの。大抵、三つ目として、膨大なアウトプットをしている、という条件も付随していたりもしますが、とにかくまあ長い時間を掛けて積み上げている、ってことです。

 

で、僕の言う〈視点〉とは、そのおびただしいまでの積み重ねを通じて得られたものであり、そこから得られる洞察のことです。このインサイトは、付け焼刃ではどうしたって身に付きませんが、鋭い〈視点〉は世界認識を上書きするほどの力を持つことがあります。ある種のセンスオブワンダーと言ってもいいです。

言語相対性仮説の真偽はさておくとしても、アイヌ語には雪を示す言葉が数多くあり、それだけアイヌの人々は雪を見分けている――つまり、言語がものの見方を作るのだ、というのは世界の見方を一新させるものがあります。それは逆に言うなら、言語を通じて人はものの見方を変化させることができるということ。他人の言葉で自分は変わる。

 

そして、そうした自分を変えてくれるような深い洞察を含んだ言葉こそ、僕が〈視点〉と呼ぶものに他なりません。

 

で、ようやく本題ですが、今回は、廃墟好きにしかわからないものを知りたいなーと、【廃墟 エッセイ】でググった結果、廃墟部なるパワーワードにやられちゃいました。*2

 

廃墟部の美少女たちによる廃墟美を探究する部活コメディコミック | ダ・ヴィンチニュース

 

なんだかんだ、この記事を最後まで読まずに購入してしまいましたが、「廃墟部」という言葉から連想されたものは、

「廃墟巡りを題材とした日常系の部活ものかな?」
「ただ、題材的に物語るのが難しそう。」*3

というものでした。

まあ内容なんて見なければ分かりませんし、(上に貼ったリンクの画像を見れば分かるかと思いますが)表紙の絵が可愛らしいから、それでいいよね、って。ジャケ買いしても仕方がない。それに加えて、〈廃墟美を見出す視点〉について描かれているなら文句なんてあるわけがない。

 

 

【レビュー】

ひっさびさに漫画買いました。

頂いたものか、積んでたものを読んだり、あるいは引越しの時どうしても手放せなかったものを再読したりと、漫画自体はちょくちょく読んでいたのですが、購入したのは本当に久しぶりです。ブックウォーカーでは実に十ヶ月ぶりに買ったことになります。Amazonの記録を辿ってみても、漫画は買って…ないな。自分でもびっくりです。

 

さて、内容。

まず減点項目に関して言えば、リーダビリティが低さが挙げられるでしょう。

吹き出しの配置が悪いせいで誰がしゃべっているのかわかりにくかったり、セリフの文字数が多くてテンポが悪くなっていたり。

 

ですが、スマホを叩きつけたくなるほど酷いものではありませんし、そもそも、単に作者の力量不足うんぬんとかだけじゃなくて、編集者の力不足の方が大きいんじゃないかと思います。ちょっと直すだけでもっと読みやすくなるのに。残念。

 

しかし!

そんなこたぁ、どうでもよろしい。この作品には僕を惹き付けてやまない魅力があるのですから。

まず、一話目の扉絵。これがすごくいい。*4

 

どこかの森にあるコンクリート製の建物に木漏れ日が差し込んでいる。崩れてしまったようで、天井はなく、壁すら半分以上残っていない。その蔭に佇む四人の少女、それは、この絵にとって脇役にすぎず、淡い木漏れ日が、コンクリートの冷たさが、どこか清浄な雰囲気を醸し出してすらいる。この絵の主人公は人ではない。風景なのだ。

 

二話目以降からは、登場人物の微エロなものになっていきますが、それはそれで良いものです。

 

登場人物もキャラ立ちしていて良いです。生徒会副会長の佐奈ちゃんは、ツンデレと言われてる割にツンの描き方が安直な気もしますが、こういうチョロインも好きなのでモーマンタイ。

 

とまれ、僕がとりわけ好きなキャラはやはり水沢柚姫ちゃんです。彼女が描かれていただけでも買った甲斐がありました。


第一印象としては、廃墟に惹かれる仄暗さを持ちながらも、暗い印象ではないのが魅力的だと思いました。
髪の明るさと表情が、どことなく明るい印象を強めている気がします。仮に、黒髪だったら、もう少し重い印象になっていたでしょうからね。

 

荒れ果てた野球部の旧部室。
「今はもう、この部屋を使う人は誰もいないし、踏み入れる人もいない。でもね、此処で時間を過ごした人達は確かにいた。その事をこの部屋は物語っているーー」
彼女は振り向き、
「そう思うと、ロマンを感じない?」
と微笑んだ。

「時間をかけて緩やかに朽ちていく中で、こんなにも美しくなっていく。薄れていく思い出が、美しくセピア色に染められていくように…。別れてしまった人の存在が、時間が経つほど心の中で大きくなるように、『建物』も同じだと思うの…」

 

寂然(さび)ですねー。
閑寂さのなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさとか、古びた様子に美を見出す意識、あるいは、内側の本質が外側へと醸されることと説明されます。


似たような概念として、侘びがあります。
「priceは高くないが、qualityは高い」という概念。岡倉天心が『茶の本』の中で“imperfect”と表現したもの。*5つまり、不完全な美。部分から全体を想像することですね。たとえばチラリズムとか!(←おい


老荘思想で有名な『荘子』の寓話にこんなものがあります。

 

昭文という有名な琴の演奏家が、琴を弾かなくなった。それは、琴を弾いている時、ひとつの音を出せば、ほかの音が消えてしまうことに気づいたからだ。手を休めている時には、すべての音がそろっている。

 

有 成 與 虧 。 故 昭 氏 之 鼓 琴 也。 無 成 與 虧 。 故 昭 氏 之 不 鼓 琴 也 。

 

荘子』内篇 斉物論篇第二 p.55

 

 

荘子 内篇 (ちくま学芸文庫)

荘子 内篇 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

荘子』の斉物(せいぶつ)論で説かれているものの一つですね。*6
僕はこれを選択と可能性の問題と捉えていて、ある選択をしてしまうと、他の可能性が潰えてしまう。それゆえ、あえて選ばない。選ばない、ということを選択することによって、すべての可能性を夢想し、愉しむことが出来るのだと。

 

部分から全体を想像する、というのとはまた異なりますが、すべてを描ききらず、想像によって愉しむ、という部分では侘びと共通するのでは、と思います。

 

視るのではなく、観て、

聞くのではなく、聴く。

本当に美しいものはイデアにあるからこそ、その扉を開く鍵として、歪さであったり欠落感、あるいは静寂といったものを利用するのかもしれませんね。

 

 

『るいるい』に話を戻します。

最終巻まで読んでも、僕は彼女の言う「綺麗」は結局わかりませんでしたが、廃墟美なるものの一端には触れられた気がします。


廃墟に関する知識も良い。

僕はツウではないので、そう思ったのかもしれませんが、「なんとなく好きだから」という理由で廃墟を描こうとした人間だったなら、ここまでするりと情報が出てくることはないと思います。


例えば、廃墟風景画家のユベール・ロベール。
作中では彼のある作品について、「廃墟化したグランド・ギャラリーの想像図」と表記していますが、僕がググった時はその名称ではなく、〈廃墟となったルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図〉でした。(邦訳って、自分の情報ソースが如実に表れるから怖いですね。)

 

 

そういえば、廃墟部、なんて言っていますが、建前としては、景観歴史研究部というものが用いられています。最初、廃墟部なんて名称で申請が学校に通るのか?なんて思ったりしましたが、そこらへんのエクスキューズを用意しているあたり好印象。

 

他にも、廃棄に侵入って、場合によっては不法侵入で罪に問われるのでは?という疑問にも、基本的に、知り合いの所持するところに許可を取って入っているあたり、流石だなあと思いました。まあ、その知り合いが、ドタバタコメディにおけるマッドサイエンティストさながらの便利キャラと化していますが、それはご愛嬌です。*7

 

終わり方も綺麗です。

「廃墟が廃墟である時間は凄く短くて消えてしまうのかもしれない」

文中の「廃墟」を、「学生」と置き換えてみると、学園ものの良さに変わります。

廃墟は壊れるからこそ美しく、青春は学生時代が終わるからこそ煌めく。

 

僕は、青春は終わってしまったからこそ美しいと思いますが、彼女らは、終わってしまうからこそ美しいと感じている。

 

僕はこの作品を読むまでは、廃墟に終焉の美を見出していました。終わってしまったからこそ美しいのだと。

しかし『るいるい』は異なる視点を描きます。

廃墟は、壊れてしまうから美しい。「かつて」を示す「この景色」は、今この瞬間しか見れない、と。

 

それを踏まえれば、ユベール・ロベールの作品から受け取る意味もまた形を変えます。

遠い未来、僕らの見ている「この」景色は変わってしまうことでしょう。

しかし、悲嘆にくれる必要はありません。描かれた終焉の景色は、今、この瞬間の景色の輝きを逆説的に投射しているのですから。

 

 

*1:「対幻想としてのSM」と「性的倒錯としてのサディズムマゾヒズム」に関しても書きたいけれど、そっちはまた今度にしたいと思います。

*2:〈視点〉をさて置くなら、僕、廃墟って好きなんですよね。錆びたパイプとか、朽ち果てたコンクリートの柱とか。雨の日に外出するのは嫌ですが、降る雨を見ている分には綺麗なように、僕にとっての廃墟もまた、足を踏み入れるには雑然としすぎていたり虫がいたりと好きになれませんが、景色として楽しむ分には好きです。

*3:実際、全二巻ですしね。これが十巻とか言ってたらすごい。世界各地の廃墟を巡るとか、登場人物を増やしたり、上手い事ドラマを掘り下げないと、話を引き延ばせませんし、引き延ばしたところで物語のテンションが上がりきらなくて、飽きが来ちゃいます。

*4:紙の書籍で見たかった…!

と後悔するほどです。見開きでパッと楽しめるのはやはり物理書籍の醍醐味ですよね。

あるいはせめて、電子書籍なんだから、雑誌掲載時のカラー載せてもいいんじゃないかと思うんですけど、そこらへん難しいんでしょうか。うーむ。

*5:他にも“beauty of imperfection”とか、“beauty of asymmetry”なんて訳語が当てられることもあるようです。特に後者なんかは日本語にすれば「歪みゆえの美」ですから、その逆説的な表現に感嘆します。小説家は、重要な部分を意図的に文章のリーダビリティを下げることで、読者に理解を促す時がある、と見聞きしたことがありますが、歪みゆえに注意を促し、想像を膨らませるというのも演出の一つかもしれませんね。

*6:この斉物論には有名な〈胡蝶の夢〉なんかも載っています。

*7:てか結局、会長の「まなまな」呼びは定着しなかったし、部長も登場しなかったな…と書いてて気づいた。