ロニ・ホーンについて。
概念芸術(コンセプチュアル・アート)って、この前読んだ『聖☆高校生』にも出てきたな。
なんてことをふと思った。*1
龍人「構想設計専攻
――俗にいう
現代美術」
〈…〉
(コンセプチュアル・アートについて調べている美園)
美園「コンセプチュアル・アート…
概念芸術」
”広義には言葉、写真、図面、パフォーマンスなど「可能なかぎり物質性を排除した経済的な手段」によって、概念を直接的に表そうとする傾向をさす。”
小池田マヤ『聖☆高校生』8巻 pp.60-61
これ読んだ時は、同じ現代美術だけどマルセル・デュシャンとは関係ないのかなーと思っていましたが、むしろ彼はコンセプチュアル・アートの父と呼ばれているようですね。
コンセプチュアルアートは脳内で完成するの? コスースの3つの椅子
上記リンク面白いです。
写真の椅子と、モノである椅子と、椅子の定義の3つを並べていて、そのどれもが椅子。
いやいや、モノである椅子以外、椅子そのものじゃないだろ、ってツッコみたくなりますが、展示品であるため、モノである椅子ですら座ることができない。だとすれば、椅子が椅子であることってなんだ? と問いかけているかのよう。
作品自体が発する何か感覚的な、
或いは感情的なことを提示しているのではなく
「作品に対するアイデアやその作品がつくられたプロセスにこそ
意味があり、その過程が美しいのだ」というのが
コンセプチュアルアート、つまり概念芸術と言われるものなのです。
上記リンク 「彫刻のない美術館」より
面白いなコンセプチュアル・アート!
で、いっちゃん上のロニ・ホーンのリンクを再び引用します。
Roni Horn / the selected gifts — POST
僕はその写真集を持っていませんし、その解説も読んでいないので、貼られた写真からの憶測になりますが――
見開きで写真が並べられている。きっとあなたも間違え探しのように、右と左で違うことに気づくだろう。ページをめくる。またも並べられた写真。
こうして、この写真集を読む人々は、間違え探しを知らず知らずのうちに余儀なくされる。はたして、左の写真と右の写真の差異は一体なんだ?
鑑賞者の見方をデザインしているかのようで、とても面白いです。
日本語では書かれていなくても、外国語だと書かれていることがあるので、英語で書かれたWikipediaを覗いてみましたが、ロニ・ホーンについて書かれていません。どうしてなんだ!僕はこんなにもロニ・ホーンについて知りたいというのに!
彼女の何が知りたいかといえば、彼女の言った言葉についてです。
「水はセクシーだ。しかし黒い水はセクシーではない」という一見わけわからん言葉。
でもこの言葉の後に、淀んだ水を見ると、ああ、確かにセクシーじゃねえな、って思いました。
底が透けて見えるほどではないにしても、透明度の高い水は、陽光が煌めいて反射していたり、潜ってみればレンブラント光線さながらに条(すじ)となっていたり、あるいは夜の室内プールで、底でゆらゆらと揺れる光の波であったり。
かくも水はセクシーだ。いや、僕がセクシーだと思ったものは、水ではなく光だろうか。ーー否、水と光の交わりこそ、セクシーなのだ。
「理解しきれないものに惹かれます。水に対する興味もそこから来ていると思います。私たちは水を熟知しているようで、実は知らない。水は水でしかないけれど、ほかの物のとの関係性の中に存在し、常に柔軟な変化をします。ガラスも同様です。どっしりとした塊が徹底的に透明だという興味深い逆説を、なぜか受け入れられないので、自分の知らない秘密でもあるかのように何度も確かめるのです」
http://www.art-it.asia/u/admin_interviews/cSkBHVwTlryxJ5fIOYv3/
何かについて知ること。それは同時に自分を知ることでもある。僕は水について、あるいは光についてどれだけ知っているのだろう?