思考の揺りかご

あるいは無意識の輪郭を探っていくこと

セルジオ・ルッツィア:作、福本友美子:訳『ときめきのへや』 あなたにとっての宝物ってなんですか? モノでしょうか。それともーー

 

ときめきのへや (講談社の翻訳絵本)

ときめきのへや (講談社の翻訳絵本)

 

 


貝殻、蟹の鋏、木切れ、硝子の欠片、小さな鍵に片っぽだけの靴、捻じれた根、そして誰にも届かなかった手紙……
モリネズミのピウスは、あちこち歩いて蒐集しては部屋に飾る。
そんなピウスの「ときめきのへや」には様々な人が訪れる。並べられた宝物を見るために。あるいはそれにまつわるピウスの話を聞くために。
しかし、宝物の中で唯一「どうしてここにおいてあるんだろう?」と誰もが首を傾げるものがあったーー

 

 

この絵本、めっちゃ好きです。

言葉ではなんとも言い難い、微妙なニュアンスの含まれた絵もさることながら*1、個人的に好きな場面がいくつもあるんですよね。でも今回は欲張らないで一カ所だけ語ろうと思います。

 

主人公のピウスくんは、いろんな人に「なんでこんなもの置いてるの?」と言われて、そういうものか、と自分の宝物である石ころを手放してしまいます。結局、棄ててしまったことを後悔するわけですが、そこで失った宝物とよく似た石ころを拾って大切そうにします。

 

ーー最初、ここを読んだ時、僕はこの展開に納得出来なかったんですよね。

だって、拾った石ころは、似ているだけで宝物だったあの石ころとは別の物じゃないですか。だから、僕なら他人になんと言われようと棄てないねっ、なんて思っていたわけですが、自分がどうするかだけを考えて、登場人物の心情を汲み取らないのはナンセンス。というわけで、もう一度読み直してみました。


小さな石の感触を確かめる。すべすべでひんやりしている。はたしてこの石はどこから来たのだろうと想いを馳せる。よくぞここまで来てくれたものだと。

 

感触を確かめ、想いを馳せるうちにその石に愛着を持ちつつあるのと同時に、あの石をそこに重ねていたのではないでしょうか。

棄ててしまった石ころはどこに行ったのだろうか、あの石は凍った池の上に落ちていたけれど、どこから来たものだったろうか、と。他人の言葉に振り回されて、大切なものを棄ててしまった後悔。その感情すら、今まさに拾った石ころに宿ったのではーー。


ピウスくんが見ているのはただの石ではありません。石を通して、過去を見ているのです。石の裡に渦巻く時間は、石そのものが辿って来たものであり、拾った時点で自らの裡に生じた感情でもあります。

 

 

僕の好きなエッセイに「遠さの構造」というものがあります。

 

 

待つことの悦び

待つことの悦び

 

 

 

遠くのものは美しく見える。

これは普遍的な原理だと思う。いつの時代にも、七つの海を越えて運ばれてきた香料、没薬(もつやく)、宝石のたぐいは、王侯貴族に愛でられ、高貴なものと見なされていた。稀少であったばかりではない。到達できない距離というロマンティックな観念を携えていたからである。

〈…〉

遠さというのは空間の話だが、これを時間に置き換えてみると、思い出のなかの光景ということになる。

〈…〉

不幸のうちに続く日々に、幸福であった過去を思い出すほどの悲しみはない、という。これは『神曲』のなかで、地獄に堕ちた密通の恋人たちが、二人して厳しい責苦に遭いながら口にする言葉である。

たぶんこの悲しみは喩えようもなく甘美なものにちがいあるまい。かれらは過去の幸福を失うことで、逆にそれを、永遠に反芻可能な思い出として所有する術を得たのだから。そして往々にして幸福とはこのようなものではないか、とぼくはいささか逆説的に考えている。人は逆境にあってこそ幸福という観念を作り出し、それに酔い痴れるような気がするのだ。追憶の炎のなかでは、なにもかもが薔薇色に輝いて見える。愛も、友情も、ときには憎悪さえも。

 

人物や事物に輝きを与えるのは距離の構造にほかならない。遠いものは美しく見え、近いものは冗長で醜く見える。

 

「遠さの構造」(四方田犬彦『待つことの悦び』所収)

※強調、管理人。

*2

 

好きな文章すぎて、引用が長くなってしまった(汗)

これを初めて読んだのは高校生のころですが、この本を購入したのは約二年前。

初めて読んだ頃も「遠さの構造」は全部読んでいたのだけど、二年前に読み直した時、ニーチェの遠人愛についてまったく憶えていなかったから、記憶というのは存外いい加減だな、と改めて思ったのは今でも印象に残ってます。

とはいえ、題名が秀逸なのもあって、遠いものほど美しい、という考え方は高校生だった当時から今に至るまで、僕の価値観に非常に影響を与えています。

 

空間的に遠いもの、というよりは、思い出に対する思い入れと言いますか。

 

タイムリープってありますけど、僕は自分の人生をもう一度やり直したいとは思いません。だってめんどくさいじゃないですか(笑)

いくらチート出来るったって、ターニングポイントが毎日あるわけでもなし、つまるところ毎日努力を積み重ねなければならないのは現在と同じ。だとすれば、未知な分だけ現在努力した方が楽しいに決まってます。

 

だから、僕が過去に想いを馳せるのは、やり直すためではなくて、「今ここ」に居つつも、「今」「ここ」で無い場所を空想するため。過去は決して届かないからこそ、ユートピアたりうる。

 

 

『ときめきのへや』に話を戻します。

ピウスくんは「最初の石」を棄ててしまいました。それを取り戻すことはもはや出来そうにありません。ですが、似たような石を見つけたことで、その石を通して失った「最初の石」を見出すことが出来るようになったのです。

 

「最初の石」を失ったことで、大切なものの価値を決めるのは他人ではなく、自分だと気づけました。その成長を喜ぶべきなのでしょう。

 

ここでもう一歩踏み込んで考えてみたいのは、宝物はなぜ大切なのか、ということです。

 

宝物に付随する思い出でしょうか?

だとすれば、モノとしての宝物を失ったとしても、それは失われることなどないはずです。

「だから」ピウスくんは立ち直ることが出来た。たとえ三日間落ち込んだとしても。

 

でも、僕はそんな風に割り切ることが出来そうもありません。思い出と同等か、あるいはそれ以上に、モノに執着してしまいます。

 

新海誠監督の映画『星を追う子ども』では、「喪失を抱えて生きよ!」と力強いメッセージが発されましたが、僕はまだ、抱えながら生きるのではなく、引き摺りながらでしか生きることが出来なさそうです。

 

 

劇場アニメーション『星を追う子ども』 [Blu-ray]
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*3

 

 

*1:後述する、再び石ころを拾った場面の次のページなんかも良いです。路地裏の遠くを歩いているピウスくんの姿が絵にされていますが、その遠さが時間を感じさせるんですよ。
文章では単に「ピウスは、いしころを もってかえりました。」とありますけども、その一枚の絵が、石を拾ってからそこまでの時間何を考えていたのだろう、と想像が膨らみます。背を向けているのもいいです。どんな表情かわからないからこそ、想像力がかきたてられる。

*2:ふと、アニメの『忍たま乱太郎』で、香料(確か胡椒だったかな)をお礼に渡されるけど、「こんなものどこがいいの?」と池の中に捨ててしまうエピソードを思い出しました。香料は稀少であるがゆえに高価である、ということを知らずにやってしまったことなんだけど、香料そのものにロマンを見る人がいる、というのはとても興味深い。単に稀少であるから、というだけでなくて、その香料のあった場所や、それが辿ってきた道や携わった人に想いを馳せる、という部分もあるのかもしれません。それって非常に文化的だと思います。現実そのものではなく、意味や価値を見出す人間ならではですから。

たとえ生産性がなくても、たとえ幻想にすぎずとも、きっとそれは尊いものだと僕は思います。

*3:エントリ執筆中に聴いてた曲「Hello,星を数えて」「櫻ノ詩」「在りし日のために」「空想科学少年」「愛してるばんざーい!(Piano Mix)」