同情すべきか否か:同情という優しさ
いくつか思考しているテーマがあるけども、 その中でもこの問題は、自分の中で消化しきれていないものだ。
というのも、〈震災後ゲーム〉の傑作『CHAOS;CHILD』 の中で百瀬という人物が、
「舐め合いかどうかはともかく、私は、 同情って優しさだと思ってるわよ」
という発言をしていて、 それが僕の胸に引っ掛かって、留まり続けているからだ。
僕は、ニーチェ由来の「同情の禁止」という価値観が脳裏にこびりついていたから、同情否定派だった。
けれど、この台詞を聞いた時、『同情も良い物なのかも……?』と価値観が揺らいだ。
だからこそ、同情の是非についてきちんと思考しなければ、 というのが今回のエントリ。
ーーーくだんの台詞によって、僕の中に残っていたしこりを取り除くべく、思考していたのは近辺だと二か月ほど前だったろうか。
『ニーチェ どうして同情してはいけないのか』という書籍を読んだ。
ニーチェ―どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
- 作者: 神崎繁
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2002/10
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なぜ『 ツァラトゥストラ』が難しいのかわかったから収穫だったけど、肝心の「どうして同情してはいけないのか」 ということに関しては、 納得のいくロジックを読み解けなくて残念に思っていたように記憶している。
そこからさっきまでの二ヶ月間、特に進展はなかった。
が、アダム・スミスの『道徳感情論』関連で調べていたら、今まであったピースが一気に繋がった。
- 作者: アダムスミス,Adam Smith,水田洋
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それは果たしてどこから語るべきか……
そう、まずは強者の思想からだ。
同情に関して、ニーチェの超人思想と並行して、サド的な解釈もあり得ると思う。
つまり、『同情とは自己愛に他ならず、 そこにいったい他者はいるのか?』ということだ。
サドの作品には他者などいない、 と批判されることがあるようだけど、他者など理解しえない、 という冷徹なリアリズムを追及すればこそ、 容易に他者など描けないことは至極まっとうな意見のように思われる。
しかし、 強者のロジックばかりに耳を貸すのはバランスが悪いだろう。 誰しもが強者でいられるわけではない。
だからこそ、 その困難性に抗おうとする超人志向者に僕は尊敬の念を抱かずにはいられない。
けれども、その 一方で優しさの思想があってもいいと思うのだ。
が、その「優しさ」というものが曲者で、 その問題の核にあるものは、「自己と他者、そしてそれ以外」 の線引きだ。
ウチとソト、と言ってもいい。
まず、人間と認め得るものはその「ウチ」 にあるものだという前提がある。
人の度し難い業ではあるのだけど、「ソト」 にあるものに対して想像を巡らせる、 というのは余程意識しなければ難しいことだ。
根深い差別意識もこれに起因すると見て間違いない。
同情に話を戻そう。
上に引用した「同情って優しさだと思う」ということについて……
強者のロジックからすると、同情というのは欺瞞であり偽善だ。
ハガレンよろしく「やらない善より、やる偽善」 と反論してもいいのだが、それでは平行線だろう。
残念系ラブコメの傑作である『はがない』で、 同級生達に絡まれている小鷹を 「弱いものいじめをするな」 と夜空が助ける場面がある。
そこで小鷹が感謝するとは思いきや、「俺は弱いものじゃない」 と逆に殴られてしまい、殴りあいの喧嘩になるのだが、 これこそ偽善の典型的な例だろう。
「虐げられている弱者を〝救う〟ことは正義である」 というのは一見正しそうなロジックに思えるが、 〝彼ら〟が助けられることを望んでいないということもある。
かつての文化人類学者が〝野蛮〟と見下して、 自民族中心主義的に〝未開主義〟だと断じた誤りにしろ、
新宗教の〝被害者〟を〝救おう〟とすることにしろ、
「救おう」とするその偽善こそが、 被救済者に傷を与えることもある。
心理学的な視点から、ニヒリスティックに見るのなら、 アンダードッグ効果というのもある。脳内の化学反応に騙されているのなら、同情などという〝感情〟にーーいや、〝感情〟そのものに価値を求めること自体、不毛ではあるまいかーー
………………
…………
……
ここで再び問おう。
―――同情という優しさは果たして悪なのだろうか?
ここで、エンパシーとシンパシーという言葉を持ち出してみたい。
いくつかの本やサイトを参照した中で、 端的にまとめているブログがあったので引用すると、
エンパシー(共感)とは、実際に、 打ち明けている人がいる暗い場所まで降りていって、「 それは辛いね。私もそれがどういう気持ちなのかよくわかるよ」 と言うこと。
シンパシー(同情)は、その人と同じレベルに降りていかず、 上から目線で「えー、可哀相」と、 あくまで自分には関係ないというスタンスを取っていることを指します。
http://japanese.yukaripeerless.ca/2016/02/empathy_sympathy/
「エンパシーとシンパシーの違いとは」
『縁もゆかりも Everybody Else Is Already Taken』より
おそらく、ニーチェが否定しているのはシンパシーで、優しさのある〝同情〟とはエンパシーのことなのだろう。
僕は見ていないのだけど、かつて放送されたドラマで『 同情するなら金をくれ』という台詞があったらしい。
魚の釣り方を教えず、魚だけ与える行為の是非はともかく、「可哀想」と〝あの〟視線を向けられるより、金をもらえることの方が確かに理にかなっている。
心の底から〝同情〟していようと、骨身を削る行為にしか、 相手の心には届かない。
言葉だけでは伝わらない。
感謝にしろ、 助けてあげたいって気持ちにしろ、相手の心にどう届くか、 ってことまで含めて考えなければ、 気持ちの共有なんて出来はしない。
人と人とは理解しえないものだ。
けれど
完璧な理解はできないにしても、一歩、 あるいは半歩でも歩み寄ろうとすることは無駄なことなのだろうか、無理なのだろうか?
いや、不可能だからこそ、『通じ合えた!』 って思えた時の感動は大きいのだろう。
しかし、それにはものすごくエネルギーが必要だ。
大切な人でさえ、それが苦痛だと思う時が……思ってしまう時があるというのに、 見ず知らずの、〝画面の向こう側〟 にいる戦災孤児たちにエンパシーなど抱けということに無理がある 。
だからボランティアするな、募金するな、ということじゃない。
それだけ、〈他者〉に対して思い巡らせることが難しい、 ということだ。
ーーーここまでで、エンパシーに価値があることは確認できた。
ならば、シンパシーはどうだろう?
その偽善は、誰かを〝救う〟だろうか。
その優しさは押しつけがましくないだろうか。
僕はここまで考えてみて思った。
偽善をするにしろ、血を流す覚悟を持てと。
無邪気な偽善は恥ずべきものだ。
魂を穢すことすらあり得るものだ。
肉体を傷つける以上に冒瀆的な行為だと、偽善者に気づいて欲しい。 切に願う。