思考の揺りかご

○○教の総本山(笑)

友人が書いたエントリのコメント欄が不毛すぎて泣きたくなった件  

 

そのエントリは不謹慎ととられても仕方のないものを題材にしていたけど、 僕は精神の血によってしたためられた文章のように思った。

 

多くの人が顔をしかめるかもしれない内容だったし、 ある意味ネガティブなものでもあった。

 

でも、僕はそこに力強さを見た。優しさを見た。

 

だというのに、コメント欄と言えばあまりに不毛。

 

昆虫みたいな脊髄反射で書いてる人とか、 ゆるゆるなロジックの常識論かましてる人とか。

 

ここで罵詈雑言をまくし立ててもいいけど、まあ、 人格攻撃したいわけでもない。

 

でもさ、正論ってただの暴力だよね?

問答無用で反論許さないでしょ。

それって、体罰よりも時にはひどいんじゃないかな。だって体罰だったら、精神そのものは傷つけられない。それがトラウマになるってこともあるかもしれないけれど、肉体的な暴力に頼っている時点で、それは精神を束縛ないし支配できないと暗に示しているようなものだ。ゆえに、苦痛はあっても自由は残されている。魂を殺されずに済む。

 

だからこそ、その点から言えば、正論は否定を許さない分、体罰よりも悪質だ。

 

『自分の〝意見〟は正しいから否定しようがないだろう』と、優越感に浸っているんじゃないかと勘ぐってしまう。

 

しかも第三者から見れば、目に見える部分で悪いことをしてない分、正論を述べる人間に待ったをかけることもできない。実に卑怯だ。

 

 

ーーーくだんのエントリに話を戻すと、その書き方自体を批判している人もいたけど、 なんか意味のわからん茶化し方してたりと誠意が見られないのが癪だった。

 

書き方を問題視するのに、 当の発言者が言い方に気を遣っているようには思えない。 本当に不毛だ。

 

 

まあ、ネットなんて不特定多数の人間が見るわけで、 すべての人間に節度守れやーなんて言っても不毛だけどさ。

 

でも、熱量こめて書いた記事の反応が、 あまりにも不毛だと嫌になってくるよね、実際。

 

 

沈黙せざるを得ないものってのは禁忌について触れるな、 ってことじゃない。

 

明晰に語りうることができないもののについては、 ロジックによって導くことができないというだけのこと。

 

しかし、だからこそ、人は語らなければいけない。

 

こればかりは、AIに頼むこともできないことだからだ。これから先、代替するものが増えていくだろうが、この問題はヒトがヒトたるゆえんにすら成りうるものだと、僕は思う。

 

おそらく、その議論はすぐには終わらない。 もしかしたら永遠に終わらないかもしれない。

 

でも、それでいいのだと思う。 最善手を導き出そうとするからいけない。

 

語り続けることに、 意義がないわけじゃない。 答えを得ようとする過程で得られる何かこそ、 人にとって重要なものだから。

 

 

ーーーと、ここでひとつ、思考実験。

 

『幸福とは何か?』という命題から答えを導き出すひとつのアプローチとして、『死の間際について考えること』が有効なのではないか、 と僕は思考する。

 

すなわち、『死ぬ瞬間幸福だったと思える人生』こそが〝幸福な人生〟 なのか、

 

それとも、『死ぬ瞬間、生涯最大の絶望に見舞われるが、 その瞬間までは最も〝幸福な人生〟を送ることができるもの』こそ〝 幸福な人生〟なのか。

 

 

すこしややこしいが、 このどちらか一つの選択肢を選ぶとしたらあなたはどちらを選ぶだろうか?

 

僕は、どちらかと言えば前者のように思う。

後者は後者の苦痛があるように思うし、そもそも、自身の人生を肯定できる最期なんて、死にざまとしては最高の部類ではなかろうか。

 

……まあ、人それぞれだろう。

 

とはいえ、一つ目の選択肢を選んだとしよう。

 

すると、ここでさらなる問題が浮上する。

 

死ぬ瞬間幸福でさえあれば〝幸福な人生〟なのだとしたら、 『想像しうる限りの幸福の絶頂時、真っ先に死を選ぶべきではないか』 という思想に発展する可能性があるということだ。

 

無論この思想は、自分本位な考え方であるため、 社会的な倫理から照らせば悪と見なされるリスクがある。だから、 こちらの選択肢を否定する人もいるかもしれない。

 

そもそも、この二者択一が悪い、と脱臼してくる人もいるだろう。ではーーー

 

 

……とここまで書いてきたが、これ以上先の議論に進むと、 面倒なことになるからここで思考を止めておこうと思う。

 

ことほど左様に、〝語りえないもの〟 というのは容易に答えを出すことのできないものだ。

 

しかしだからこそ、人は語らなければいけない。 たとえ議論が長引こうと、対話をそこでやめてしまえば、 社会がよりよいものにはならない。

 

『いやいや、社会はよりよくしていく必要なんてねえだろ』 なんて反論もあるかもしれない。まあ、一理はあるかもしれない。

 

しかし、そういうひねくれものの意見であろうと耳を貸そうではないか。

 

なぜなら、多様性を肯定するということは、一見、 社会的に害悪に見えるものでも肯定すべきだと、 僕は考えるからだ。

 

その多様性の限界、閾値については各々の判断に任せるとしても、 『私が悪だと思うから許さない』 というロジックはあまりに幼稚だと思うのだが、どうだろうか。

 

 

少なくとも、『非常識だから』 という根拠だけで否定するのであれば、 民主主義の前提である言論の自由など塵芥も良いところだろう。

 

僕のスタンスとしては、『非常識』には『非常識』 なりの根拠がある、と信じている。

 

だから、ただ正論であるというだけで蹂躙する怪物ではなく、 対話とロジックで歩みよろうとする理性ある人間として、〝彼ら〟に歩み寄ることができないだろうか、と思うのだ。

 

決してそれは同調することではない。理解しあうことではない。

 

譲れないところを見極めて、互いに不干渉の領域を定め、 共存していくことだ。

 

理解できないものがあると理解すること、想像の埒外にあるものがあると想像することーーー

 

それこそが、多様性ある社会を構築するのに必要なことだと僕は思う。