千人に一人の孤独
本は売れれば売れるほど良いーーそのように思われがちだ。
村上春樹は、『ノルウェイの森』がベストセラーになったことについてこう述べている。
「小説が十万部売れているときには、僕はとても多くの人に愛され、好まれ、支持されているように感じていた。でも『ノルウェイの森』を百何万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独になったように感じた。そして自分がみんなに憎まれ嫌われているように感じた」
単純計算になるけれど、国内で読書できる人口を一億として、売れた部数をそれぞれ一人が読んだと仮定する(つまり、古本屋で購入したり、貸し借りしたり、あるいは同じ人が何冊も持たないということ)と、十万部売れたということは十万人が買って読んだということであり、百万部売れたということは百万人が読んでくれた、ということだ。
そのように考えると、村上春樹は、千人に一人くらいなら自分の感じた孤独に共感してくれると考えていたのだろうが、桁が一つ増え、百人に一人共感できるような孤独だとは思えなかったのではなかろうか。*1
そのような深い孤独を描いていてなお売れたということは、『ノルウェイの森』は丁寧に読み解かれ、愛されているのではなく、ただ流行に流されて、売れているから買った、お洒落だから買った、知り合いが買ったから買った、というような、およそ内容とは程遠いものによって『ノルウェイの森』は購入されたことになる。それこそが、みんなに嫌われ憎まれているように感じた、と村上春樹に言わしめたのだろう。
人は誰しも理解されたがっている。
しかし、それにはちょっとした但し書きがつく。
すなわち、『理解されたいように理解されたい』というものだ。
自分の中にある理解されたいもの、というのはひどく微妙なかたちをしていて、人はそのかたちにぴたりと当てはまるように理解を求めているのだ。そこから飛び出してしまったり、シンプルに切り取りすぎて大切なニュアンスが抜け落ちてしまったり、あるいはその図形よりも小さすぎたりすると、人は理解されていない、と感じる。
そしてきっと、表現欲というものは、そのかたちが複雑で微妙であるほど強くなるものであり、だからこそ理解されたいと万の言葉を尽くしたり、細密に絵筆で塗り分けたり、楽器を奏でたり歌ったりする。
書き上げてからある時点までは、多くの人に愛されるものではないにせよ、出来としては納得のいくものだったのだろう。やれることはやった、と。
だからこそ、自分の思惑を超えて売れすぎてしまったことは、自分の言葉が正しく伝わっていないと感じたのではなかろうか。
まったく異なる言語を用いる異星であればきっとそこまで孤独を感じはしなかったろう。同じ言語を用いているにも関わらず、相手を理解できず、そして理解されないというのは酷く孤独を感じさせる。
孤独には大別して二つの種類がある。
ひとつは、周りに誰もいない物理的な孤独。
ふたつめは、周りにはうんざりするくらい人がいるのに、にもかかわらず感じてしまう精神的な孤独。
村上春樹は後者の孤独を描く作家だ。
しかし、皮肉なことに、『ノルウェイの森』を世に出したら、それをかえって浮き彫りにしてしまったのだ。
百人に一人の孤独と、千人に一人の孤独。
数字にしてみれば、たったひとつ0が増えただけなのに、その0は忌々しいほど、人とつながることの難しさを伝えてくる。呪詛のように。
試しに『ノルウェイの森』に関して人に感想を訊ねてみるといい。
部数的には百人に一人は持っているはずだが、その多くは読んでもいないだろうし、読んでいたところでまともな感想は返ってこないだろう。
よしんば答えられたとして、エロいとか、よくて哀しいといったところか。
かくも、他者から理解されるということは難しい。翻すのなら、人はそこまで他者を理解しようとはしていない、ということでもある。
理解できることを理解できる範囲で。
それのどこが他者理解なのか、僕にはさっぱりわからない。そのように思う。
*1:それは自惚れとかそういうのとは別に、実体験から得た洞察として、千人に一人くらいなら、と思ったのだろうし、逆に百人に一人となると多すぎると感じたのだと思う。
『るいるい』の作者、真楠さんが気になったので調べてみた。
今現在、Wikipediaに項目が無かったので。
気になった作家の過去作品とか、近況とか知りたくなりません?
そこへ来ると、Twitterやらブログやら、SNSに溢れているので現代とはかくも便利な時代ですね。
【SNS】
まずはpixiv。
pixivに限らず、SNSって同じ名前使っている人って案外多くて、本人かどうか判別しづらいところありますよね。声優に関して言えば、彼、あるいは彼女が好きだ、という理由でアカウント名に使っているファンの方がいたりして、応援どころか営業妨害になっているのでは、と僕は思ってしまいます。
以前はプロフィールのリンク先から飛べるブログをやっていたようですが、
そう云えば以前使っていたブログが、いくら直しても文字化けして
どうにもならないので、本当にいよいよさよならしないとかな?と思いました。
と、ブログの方はいくらやっても文字化けするようなので、そのままフェードアウトした模様。
岸田奏@狂喜乱舞する左さん好き (@max_vanilla) | Twitter
Twitterは、名前が違うから最初分からなかったのですが、pixivと上記ブログ(文字化けしたぶんは、携帯変換で過去ログ漁った)をチェックしたので、本人であることは確認済みです。
【作品】
商業の方では、ラノベ『これゾン』の作者・木村心一先生の『ロック・ペーパー・シザーズ』のコミカライズをされていたようですね。*1
同人の方では、アトリエシリーズや古典部シリーズを出しているようです。
pixivに上げられているイラストの中では、サイコジェノザウラーのキットに抱きついてるリーゼちゃんのイラストが好き。
ブログの方で言及されている『ソニックワールドアドベンチャー』はまだプレイしたことありませんが、『ソニックアドベンチャー2バトル』*2は僕も好きですし、好みのアニメの傾向からも良い酒が呑めそうw
真楠『るいるい』(全2巻) 廃墟美、それは消え去る前にのみ存在する儚き美にして、古いがゆえに喚起させられるかつてへの憧憬。
朝佳高校には桜の咲き誇る中庭の横に旧部室棟がある。
築数十年と思しきその老朽化した建物には、当然のように人影はなく、硝子の割れた窓からは、散った桜が無遠慮に舞い込んでいた。
ふと見れば、美少女の姿。
友人にそのことを伝えても、あんなボロい建物に人がいるわけないだろ、と信じてはもらえず、ひとり足を運んでみた。
ガタついた木製の扉を開き、中に入るとやはり、居た。美少女だ。見間違えではなかったのだ。
声をかけると、驚いた様子で転んでしまう彼女。どうやらドジっ娘らしい。
「何してたの? 要もないのに、こんな所入ったら危ないんじゃない?」
自分のことは棚に上げ、疑問に思ったことを訊ねてみる。はたして彼女は、どこか夢みるように答えた。
「…綺麗だったから、見てたの」
近くに桜の樹が植えられていることを思い出して納得しかけるも、返ってきた言葉は意外なもので、
「この建物が…」
と彼女は云った。
何処が綺麗なのかさっぱりわからず、私は愕然とする気持ちを隠すように愛想笑いを貼りつけながら云った。
「ちょっと私には分からないかなぁ?」
理解を得られなかったからか、肩を落とした彼女は不意にキョロキョロあたりを見回して、
「うん、きっと時間が悪いんだよ!」
とズレた回答をするのだった――
【プレビュー】
先日、
のエントリ内で、〈旅行を愉しむ視点〉、〈旅人の視点〉が得られるような本が何か無いかなーと書きました。今回はそれをもう少し拡張して考えてみます。
フェチってあるじゃないですか。おっぱいや太もも、といった身体の一部分や衣服に対する執着であったり、特定のシチュエーションや行為なんかにも用いられたりするアレです。
フェティシズムの意味を調べてみれば、必ずと言っていいほど呪物崇拝、なんてワードが目に付いたりしますが、まあ、人類学や宗教学はちょっと遠いですよね。となると、性的倒錯やら変態性欲といった領域の話になるのでしょうか。
いや、フェティシズムとフェチは微妙に違うように思います。
日常で用いられる「あんたってMだよな」というSやMくらい違う。*1
単に短くて言いやすいからフェチ、というのではなくて、フェティシズム、というと生々しいからフェチという言葉が用いられているとでも言えばいいのでしょうか。しかし、フェティシズムではなくフェチであったとしても、それを極めた人たちがいます。この極めた、というのは条件があって、
①膨大な量を消費している
②それらの差異について言語化できる
といったもの。大抵、三つ目として、膨大なアウトプットをしている、という条件も付随していたりもしますが、とにかくまあ長い時間を掛けて積み上げている、ってことです。
で、僕の言う〈視点〉とは、そのおびただしいまでの積み重ねを通じて得られたものであり、そこから得られる洞察のことです。このインサイトは、付け焼刃ではどうしたって身に付きませんが、鋭い〈視点〉は世界認識を上書きするほどの力を持つことがあります。ある種のセンスオブワンダーと言ってもいいです。
言語相対性仮説の真偽はさておくとしても、アイヌ語には雪を示す言葉が数多くあり、それだけアイヌの人々は雪を見分けている――つまり、言語がものの見方を作るのだ、というのは世界の見方を一新させるものがあります。それは逆に言うなら、言語を通じて人はものの見方を変化させることができるということ。他人の言葉で自分は変わる。
そして、そうした自分を変えてくれるような深い洞察を含んだ言葉こそ、僕が〈視点〉と呼ぶものに他なりません。
で、ようやく本題ですが、今回は、廃墟好きにしかわからないものを知りたいなーと、【廃墟 エッセイ】でググった結果、廃墟部なるパワーワードにやられちゃいました。*2
廃墟部の美少女たちによる廃墟美を探究する部活コメディコミック | ダ・ヴィンチニュース
なんだかんだ、この記事を最後まで読まずに購入してしまいましたが、「廃墟部」という言葉から連想されたものは、
「廃墟巡りを題材とした日常系の部活ものかな?」
「ただ、題材的に物語るのが難しそう。」*3
というものでした。
まあ内容なんて見なければ分かりませんし、(上に貼ったリンクの画像を見れば分かるかと思いますが)表紙の絵が可愛らしいから、それでいいよね、って。ジャケ買いしても仕方がない。それに加えて、〈廃墟美を見出す視点〉について描かれているなら文句なんてあるわけがない。
【レビュー】
ひっさびさに漫画買いました。
頂いたものか、積んでたものを読んだり、あるいは引越しの時どうしても手放せなかったものを再読したりと、漫画自体はちょくちょく読んでいたのですが、購入したのは本当に久しぶりです。ブックウォーカーでは実に十ヶ月ぶりに買ったことになります。Amazonの記録を辿ってみても、漫画は買って…ないな。自分でもびっくりです。
さて、内容。
まず減点項目に関して言えば、リーダビリティが低さが挙げられるでしょう。
吹き出しの配置が悪いせいで誰がしゃべっているのかわかりにくかったり、セリフの文字数が多くてテンポが悪くなっていたり。
ですが、スマホを叩きつけたくなるほど酷いものではありませんし、そもそも、単に作者の力量不足うんぬんとかだけじゃなくて、編集者の力不足の方が大きいんじゃないかと思います。ちょっと直すだけでもっと読みやすくなるのに。残念。
しかし!
そんなこたぁ、どうでもよろしい。この作品には僕を惹き付けてやまない魅力があるのですから。
まず、一話目の扉絵。これがすごくいい。*4
どこかの森にあるコンクリート製の建物に木漏れ日が差し込んでいる。崩れてしまったようで、天井はなく、壁すら半分以上残っていない。その蔭に佇む四人の少女、それは、この絵にとって脇役にすぎず、淡い木漏れ日が、コンクリートの冷たさが、どこか清浄な雰囲気を醸し出してすらいる。この絵の主人公は人ではない。風景なのだ。
二話目以降からは、登場人物の微エロなものになっていきますが、それはそれで良いものです。
登場人物もキャラ立ちしていて良いです。生徒会副会長の佐奈ちゃんは、ツンデレと言われてる割にツンの描き方が安直な気もしますが、こういうチョロインも好きなのでモーマンタイ。
とまれ、僕がとりわけ好きなキャラはやはり水沢柚姫ちゃんです。彼女が描かれていただけでも買った甲斐がありました。
第一印象としては、廃墟に惹かれる仄暗さを持ちながらも、暗い印象ではないのが魅力的だと思いました。
髪の明るさと表情が、どことなく明るい印象を強めている気がします。仮に、黒髪だったら、もう少し重い印象になっていたでしょうからね。
荒れ果てた野球部の旧部室。
「今はもう、この部屋を使う人は誰もいないし、踏み入れる人もいない。でもね、此処で時間を過ごした人達は確かにいた。その事をこの部屋は物語っているーー」
彼女は振り向き、
「そう思うと、ロマンを感じない?」
と微笑んだ。
「時間をかけて緩やかに朽ちていく中で、こんなにも美しくなっていく。薄れていく思い出が、美しくセピア色に染められていくように…。別れてしまった人の存在が、時間が経つほど心の中で大きくなるように、『建物』も同じだと思うの…」
寂然(さび)ですねー。
閑寂さのなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさとか、古びた様子に美を見出す意識、あるいは、内側の本質が外側へと醸されることと説明されます。
似たような概念として、侘びがあります。
「priceは高くないが、qualityは高い」という概念。岡倉天心が『茶の本』の中で“imperfect”と表現したもの。*5つまり、不完全な美。部分から全体を想像することですね。たとえばチラリズムとか!(←おい
昭文という有名な琴の演奏家が、琴を弾かなくなった。それは、琴を弾いている時、ひとつの音を出せば、ほかの音が消えてしまうことに気づいたからだ。手を休めている時には、すべての音がそろっている。
有 成 與 虧 。 故 昭 氏 之 鼓 琴 也。 無 成 與 虧 。 故 昭 氏 之 不 鼓 琴 也 。
『荘子』内篇 斉物論篇第二 p.55
『荘子』の斉物(せいぶつ)論で説かれているものの一つですね。*6
僕はこれを選択と可能性の問題と捉えていて、ある選択をしてしまうと、他の可能性が潰えてしまう。それゆえ、あえて選ばない。選ばない、ということを選択することによって、すべての可能性を夢想し、愉しむことが出来るのだと。
部分から全体を想像する、というのとはまた異なりますが、すべてを描ききらず、想像によって愉しむ、という部分では侘びと共通するのでは、と思います。
視るのではなく、観て、
聞くのではなく、聴く。
本当に美しいものはイデアにあるからこそ、その扉を開く鍵として、歪さであったり欠落感、あるいは静寂といったものを利用するのかもしれませんね。
『るいるい』に話を戻します。
最終巻まで読んでも、僕は彼女の言う「綺麗」は結局わかりませんでしたが、廃墟美なるものの一端には触れられた気がします。
廃墟に関する知識も良い。
僕はツウではないので、そう思ったのかもしれませんが、「なんとなく好きだから」という理由で廃墟を描こうとした人間だったなら、ここまでするりと情報が出てくることはないと思います。
例えば、廃墟風景画家のユベール・ロベール。
作中では彼のある作品について、「廃墟化したグランド・ギャラリーの想像図」と表記していますが、僕がググった時はその名称ではなく、〈廃墟となったルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図〉でした。(邦訳って、自分の情報ソースが如実に表れるから怖いですね。)
そういえば、廃墟部、なんて言っていますが、建前としては、景観歴史研究部というものが用いられています。最初、廃墟部なんて名称で申請が学校に通るのか?なんて思ったりしましたが、そこらへんのエクスキューズを用意しているあたり好印象。
他にも、廃棄に侵入って、場合によっては不法侵入で罪に問われるのでは?という疑問にも、基本的に、知り合いの所持するところに許可を取って入っているあたり、流石だなあと思いました。まあ、その知り合いが、ドタバタコメディにおけるマッドサイエンティストさながらの便利キャラと化していますが、それはご愛嬌です。*7
終わり方も綺麗です。
「廃墟が廃墟である時間は凄く短くて消えてしまうのかもしれない」
文中の「廃墟」を、「学生」と置き換えてみると、学園ものの良さに変わります。
廃墟は壊れるからこそ美しく、青春は学生時代が終わるからこそ煌めく。
僕は、青春は終わってしまったからこそ美しいと思いますが、彼女らは、終わってしまうからこそ美しいと感じている。
僕はこの作品を読むまでは、廃墟に終焉の美を見出していました。終わってしまったからこそ美しいのだと。
しかし『るいるい』は異なる視点を描きます。
廃墟は、壊れてしまうから美しい。「かつて」を示す「この景色」は、今この瞬間しか見れない、と。
それを踏まえれば、ユベール・ロベールの作品から受け取る意味もまた形を変えます。
遠い未来、僕らの見ている「この」景色は変わってしまうことでしょう。
しかし、悲嘆にくれる必要はありません。描かれた終焉の景色は、今、この瞬間の景色の輝きを逆説的に投射しているのですから。
*1:「対幻想としてのSM」と「性的倒錯としてのサディズム/マゾヒズム」に関しても書きたいけれど、そっちはまた今度にしたいと思います。
*2:〈視点〉をさて置くなら、僕、廃墟って好きなんですよね。錆びたパイプとか、朽ち果てたコンクリートの柱とか。雨の日に外出するのは嫌ですが、降る雨を見ている分には綺麗なように、僕にとっての廃墟もまた、足を踏み入れるには雑然としすぎていたり虫がいたりと好きになれませんが、景色として楽しむ分には好きです。
*3:実際、全二巻ですしね。これが十巻とか言ってたらすごい。世界各地の廃墟を巡るとか、登場人物を増やしたり、上手い事ドラマを掘り下げないと、話を引き延ばせませんし、引き延ばしたところで物語のテンションが上がりきらなくて、飽きが来ちゃいます。
*4:紙の書籍で見たかった…!
と後悔するほどです。見開きでパッと楽しめるのはやはり物理書籍の醍醐味ですよね。
あるいはせめて、電子書籍なんだから、雑誌掲載時のカラー載せてもいいんじゃないかと思うんですけど、そこらへん難しいんでしょうか。うーむ。
*5:他にも“beauty of imperfection”とか、“beauty of asymmetry”なんて訳語が当てられることもあるようです。特に後者なんかは日本語にすれば「歪みゆえの美」ですから、その逆説的な表現に感嘆します。小説家は、重要な部分を意図的に文章のリーダビリティを下げることで、読者に理解を促す時がある、と見聞きしたことがありますが、歪みゆえに注意を促し、想像を膨らませるというのも演出の一つかもしれませんね。
*6:この斉物論には有名な〈胡蝶の夢〉なんかも載っています。
*7:てか結局、会長の「まなまな」呼びは定着しなかったし、部長も登場しなかったな…と書いてて気づいた。
ロニ・ホーンについて。
概念芸術(コンセプチュアル・アート)って、この前読んだ『聖☆高校生』にも出てきたな。
なんてことをふと思った。*1
龍人「構想設計専攻
――俗にいう
現代美術」
〈…〉
(コンセプチュアル・アートについて調べている美園)
美園「コンセプチュアル・アート…
概念芸術」
”広義には言葉、写真、図面、パフォーマンスなど「可能なかぎり物質性を排除した経済的な手段」によって、概念を直接的に表そうとする傾向をさす。”
小池田マヤ『聖☆高校生』8巻 pp.60-61
これ読んだ時は、同じ現代美術だけどマルセル・デュシャンとは関係ないのかなーと思っていましたが、むしろ彼はコンセプチュアル・アートの父と呼ばれているようですね。
コンセプチュアルアートは脳内で完成するの? コスースの3つの椅子
上記リンク面白いです。
写真の椅子と、モノである椅子と、椅子の定義の3つを並べていて、そのどれもが椅子。
いやいや、モノである椅子以外、椅子そのものじゃないだろ、ってツッコみたくなりますが、展示品であるため、モノである椅子ですら座ることができない。だとすれば、椅子が椅子であることってなんだ? と問いかけているかのよう。
作品自体が発する何か感覚的な、
或いは感情的なことを提示しているのではなく
「作品に対するアイデアやその作品がつくられたプロセスにこそ
意味があり、その過程が美しいのだ」というのが
コンセプチュアルアート、つまり概念芸術と言われるものなのです。
上記リンク 「彫刻のない美術館」より
面白いなコンセプチュアル・アート!
で、いっちゃん上のロニ・ホーンのリンクを再び引用します。
Roni Horn / the selected gifts — POST
僕はその写真集を持っていませんし、その解説も読んでいないので、貼られた写真からの憶測になりますが――
見開きで写真が並べられている。きっとあなたも間違え探しのように、右と左で違うことに気づくだろう。ページをめくる。またも並べられた写真。
こうして、この写真集を読む人々は、間違え探しを知らず知らずのうちに余儀なくされる。はたして、左の写真と右の写真の差異は一体なんだ?
鑑賞者の見方をデザインしているかのようで、とても面白いです。
日本語では書かれていなくても、外国語だと書かれていることがあるので、英語で書かれたWikipediaを覗いてみましたが、ロニ・ホーンについて書かれていません。どうしてなんだ!僕はこんなにもロニ・ホーンについて知りたいというのに!
彼女の何が知りたいかといえば、彼女の言った言葉についてです。
「水はセクシーだ。しかし黒い水はセクシーではない」という一見わけわからん言葉。
でもこの言葉の後に、淀んだ水を見ると、ああ、確かにセクシーじゃねえな、って思いました。
底が透けて見えるほどではないにしても、透明度の高い水は、陽光が煌めいて反射していたり、潜ってみればレンブラント光線さながらに条(すじ)となっていたり、あるいは夜の室内プールで、底でゆらゆらと揺れる光の波であったり。
かくも水はセクシーだ。いや、僕がセクシーだと思ったものは、水ではなく光だろうか。ーー否、水と光の交わりこそ、セクシーなのだ。
「理解しきれないものに惹かれます。水に対する興味もそこから来ていると思います。私たちは水を熟知しているようで、実は知らない。水は水でしかないけれど、ほかの物のとの関係性の中に存在し、常に柔軟な変化をします。ガラスも同様です。どっしりとした塊が徹底的に透明だという興味深い逆説を、なぜか受け入れられないので、自分の知らない秘密でもあるかのように何度も確かめるのです」
http://www.art-it.asia/u/admin_interviews/cSkBHVwTlryxJ5fIOYv3/
何かについて知ること。それは同時に自分を知ることでもある。僕は水について、あるいは光についてどれだけ知っているのだろう?
セルジオ・ルッツィア:作、福本友美子:訳『ときめきのへや』 あなたにとっての宝物ってなんですか? モノでしょうか。それともーー
貝殻、蟹の鋏、木切れ、硝子の欠片、小さな鍵に片っぽだけの靴、捻じれた根、そして誰にも届かなかった手紙……
モリネズミのピウスは、あちこち歩いて蒐集しては部屋に飾る。
そんなピウスの「ときめきのへや」には様々な人が訪れる。並べられた宝物を見るために。あるいはそれにまつわるピウスの話を聞くために。
しかし、宝物の中で唯一「どうしてここにおいてあるんだろう?」と誰もが首を傾げるものがあったーー
この絵本、めっちゃ好きです。
言葉ではなんとも言い難い、微妙なニュアンスの含まれた絵もさることながら*1、個人的に好きな場面がいくつもあるんですよね。でも今回は欲張らないで一カ所だけ語ろうと思います。
主人公のピウスくんは、いろんな人に「なんでこんなもの置いてるの?」と言われて、そういうものか、と自分の宝物である石ころを手放してしまいます。結局、棄ててしまったことを後悔するわけですが、そこで失った宝物とよく似た石ころを拾って大切そうにします。
ーー最初、ここを読んだ時、僕はこの展開に納得出来なかったんですよね。
だって、拾った石ころは、似ているだけで宝物だったあの石ころとは別の物じゃないですか。だから、僕なら他人になんと言われようと棄てないねっ、なんて思っていたわけですが、自分がどうするかだけを考えて、登場人物の心情を汲み取らないのはナンセンス。というわけで、もう一度読み直してみました。
小さな石の感触を確かめる。すべすべでひんやりしている。はたしてこの石はどこから来たのだろうと想いを馳せる。よくぞここまで来てくれたものだと。
感触を確かめ、想いを馳せるうちにその石に愛着を持ちつつあるのと同時に、あの石をそこに重ねていたのではないでしょうか。
棄ててしまった石ころはどこに行ったのだろうか、あの石は凍った池の上に落ちていたけれど、どこから来たものだったろうか、と。他人の言葉に振り回されて、大切なものを棄ててしまった後悔。その感情すら、今まさに拾った石ころに宿ったのではーー。
ピウスくんが見ているのはただの石ではありません。石を通して、過去を見ているのです。石の裡に渦巻く時間は、石そのものが辿って来たものであり、拾った時点で自らの裡に生じた感情でもあります。
僕の好きなエッセイに「遠さの構造」というものがあります。
遠くのものは美しく見える。
これは普遍的な原理だと思う。いつの時代にも、七つの海を越えて運ばれてきた香料、没薬(もつやく)、宝石のたぐいは、王侯貴族に愛でられ、高貴なものと見なされていた。稀少であったばかりではない。到達できない距離というロマンティックな観念を携えていたからである。
〈…〉
遠さというのは空間の話だが、これを時間に置き換えてみると、思い出のなかの光景ということになる。
〈…〉
不幸のうちに続く日々に、幸福であった過去を思い出すほどの悲しみはない、という。これは『神曲』のなかで、地獄に堕ちた密通の恋人たちが、二人して厳しい責苦に遭いながら口にする言葉である。
たぶんこの悲しみは喩えようもなく甘美なものにちがいあるまい。かれらは過去の幸福を失うことで、逆にそれを、永遠に反芻可能な思い出として所有する術を得たのだから。そして往々にして幸福とはこのようなものではないか、とぼくはいささか逆説的に考えている。人は逆境にあってこそ幸福という観念を作り出し、それに酔い痴れるような気がするのだ。追憶の炎のなかでは、なにもかもが薔薇色に輝いて見える。愛も、友情も、ときには憎悪さえも。
人物や事物に輝きを与えるのは距離の構造にほかならない。遠いものは美しく見え、近いものは冗長で醜く見える。
「遠さの構造」(四方田犬彦『待つことの悦び』所収)
※強調、管理人。
好きな文章すぎて、引用が長くなってしまった(汗)
これを初めて読んだのは高校生のころですが、この本を購入したのは約二年前。
初めて読んだ頃も「遠さの構造」は全部読んでいたのだけど、二年前に読み直した時、ニーチェの遠人愛についてまったく憶えていなかったから、記憶というのは存外いい加減だな、と改めて思ったのは今でも印象に残ってます。
とはいえ、題名が秀逸なのもあって、遠いものほど美しい、という考え方は高校生だった当時から今に至るまで、僕の価値観に非常に影響を与えています。
空間的に遠いもの、というよりは、思い出に対する思い入れと言いますか。
タイムリープってありますけど、僕は自分の人生をもう一度やり直したいとは思いません。だってめんどくさいじゃないですか(笑)
いくらチート出来るったって、ターニングポイントが毎日あるわけでもなし、つまるところ毎日努力を積み重ねなければならないのは現在と同じ。だとすれば、未知な分だけ現在努力した方が楽しいに決まってます。
だから、僕が過去に想いを馳せるのは、やり直すためではなくて、「今ここ」に居つつも、「今」「ここ」で無い場所を空想するため。過去は決して届かないからこそ、ユートピアたりうる。
『ときめきのへや』に話を戻します。
ピウスくんは「最初の石」を棄ててしまいました。それを取り戻すことはもはや出来そうにありません。ですが、似たような石を見つけたことで、その石を通して失った「最初の石」を見出すことが出来るようになったのです。
「最初の石」を失ったことで、大切なものの価値を決めるのは他人ではなく、自分だと気づけました。その成長を喜ぶべきなのでしょう。
ここでもう一歩踏み込んで考えてみたいのは、宝物はなぜ大切なのか、ということです。
宝物に付随する思い出でしょうか?
だとすれば、モノとしての宝物を失ったとしても、それは失われることなどないはずです。
「だから」ピウスくんは立ち直ることが出来た。たとえ三日間落ち込んだとしても。
でも、僕はそんな風に割り切ることが出来そうもありません。思い出と同等か、あるいはそれ以上に、モノに執着してしまいます。
新海誠監督の映画『星を追う子ども』では、「喪失を抱えて生きよ!」と力強いメッセージが発されましたが、僕はまだ、抱えながら生きるのではなく、引き摺りながらでしか生きることが出来なさそうです。
*1:後述する、再び石ころを拾った場面の次のページなんかも良いです。路地裏の遠くを歩いているピウスくんの姿が絵にされていますが、その遠さが時間を感じさせるんですよ。
文章では単に「ピウスは、いしころを もってかえりました。」とありますけども、その一枚の絵が、石を拾ってからそこまでの時間何を考えていたのだろう、と想像が膨らみます。背を向けているのもいいです。どんな表情かわからないからこそ、想像力がかきたてられる。
*2:ふと、アニメの『忍たま乱太郎』で、香料(確か胡椒だったかな)をお礼に渡されるけど、「こんなものどこがいいの?」と池の中に捨ててしまうエピソードを思い出しました。香料は稀少であるがゆえに高価である、ということを知らずにやってしまったことなんだけど、香料そのものにロマンを見る人がいる、というのはとても興味深い。単に稀少であるから、というだけでなくて、その香料のあった場所や、それが辿ってきた道や携わった人に想いを馳せる、という部分もあるのかもしれません。それって非常に文化的だと思います。現実そのものではなく、意味や価値を見出す人間ならではですから。
たとえ生産性がなくても、たとえ幻想にすぎずとも、きっとそれは尊いものだと僕は思います。
*3:エントリ執筆中に聴いてた曲「Hello,星を数えて」「櫻ノ詩」「在りし日のために」「空想科学少年」「愛してるばんざーい!(Piano Mix)」
いろはすメロンクリームソーダ味 新発売!! ……いや、なんかもう何でもありだな!?
Amazonのリンク貼ろうと思って探すも見つからない…と思ったら全国的にはまだ発売されてないんですね。思わぬフラゲ。
ではでは味のレビューを……と行きたいところですが、キンキンに冷やそうと思って冷凍庫に入れてたら、中身が凍ってしまいました。
全部氷になったわけではなく、半分くらいシャーベット状になった感じ。うーむ、失敗。
そのシャーベットいろはすは、口に含んで舌に乗せると、さらっとした食感とともに淡く溶けていきます。雪みたいな感じ*1。
ただ、いろはすはやっぱり水がベースなので、シャーベットにすると後味があまりよろしくありません。凍らせずに飲みたかったー!
というわけでリピート決定。
*1:雪、食べたことあります? 僕は小学生くらいの時にやりました。今では流石に汚くてやろうとは思えませんけどね!
か、買ってしまった……
有名すぎる本。旅を愛する人たちにバイブルとして読み継がれているそうな。*1
……でも、僕は先日まで知りませんでした(苦笑)
僕が流行に疎いというか、有名なものを知らないってのもありますが、そもそも旅行に興味がない……もとい、興味がなかったということが大きいです。
だって、乗り物に乗ってるだけでも疲れるじゃないですか! それに旅行って何が楽しいんですか!? 修学旅行とかでも、寺に行きましたー、はい終了。
僕は思います。それの何が面白いの? と。
もちろん、誰と行くか、も大切なんでしょうけどね。でも、それならわざわざ旅行に行く必要がない。友達の家でゴロゴロしてた方が楽しい。
お金かかるし、まとまった休日を作るためにいつも以上に働かないといけないし、宿泊施設を予約したり、どこに行くかの計画を立てたり……ああ、もう考えるだけで面倒だー!(笑)
とまあ、旅行に行きたくない理由をでっち上げましたけども、違うんですよ、実際はね。
本当は、旅行に行って、感動できない自分に嫌気が差すから行きたくないんです。
旅行を愉しめる感性が欠如しているーーそんな気がして。
とはいえ、外国に行きたいだとか、国内でも旅行してみたいという欲求はあります。
だから、〈旅行を愉しむ視点〉、〈旅人の視点〉というものが得られる書籍があるといいなーって思います。