思考の揺りかご

○○教の総本山(笑)

友達の家でリゼロマラソンしてきた。

 

 最高だった!

エミリアたんマジEMT。

 

正直、ループものはもう飽き飽きしていたし、原作読んでから~と放置していたリゼロのアニメを一気に観た。

全25話でどんだけ泣かされたかわからない。

 

8話でエミリアに膝枕されながら「大変、だったね……」と囁かれたり、11話でレムがかけたスバルの言葉や、18話での打ちのめされたスバルを救うレムとかね。

 

挙げたらキリがないけど、18話は特に好き。スバルに逃げようって言われて絶対行きたかったと思うんだよね、レムりん。それでも、あそこで拒否するあたり良い女すぎるでしょ。志の方向性は違うけど、その人を本当に愛するからこそ、愛する日々を歩むことを選んではいけない、というあたりが脳内で『fate/staynight』のセイバー√がオーバーラップしてなおさら涙腺緩む始末。

 

素晴らしすぎてソシャゲのオルガルに手を出す始末。エミリアたんが画面にいるという幸せ。

 

いろいろ書きたいけど、ひとまず先を知りたい。このまま、なろうで続きを読むつもり。

『さくら荘のペットな彼女』を布教するよ!

 

さくら荘のペットな彼女 (電撃文庫)

さくら荘のペットな彼女 (電撃文庫)

 

 

僕の私淑する饗庭淵さんとペトロニウスさんの二人が揃ってこの作品に否定的だったのは悲しい。

 

饗庭さんに関しては、純粋に生理的なものだから仕方ない。


僕だって、『AIR』や『Rewrite』のルチア√を再プレイしろ、と言われたら顔をしかめる。


しかし、物語に耽溺して生きる〈典雅の決裁者〉ペトロニウスさんがこの作品を否定してしまうのはあまりに惜しい……そう思わないではいられない。


好き嫌いの範疇だから仕方ないんだけど……あの方は忙しいし、他に堪能すべき作品があるだろうから、押し付けるわけにはいかないけども……


でも、一巻目を読んで『つまらないと切って捨てる気はないが、なんか読んだ時間を返してと思うくらいにあまりに平凡で凹む』と評価を下していたのが引っかかる。*1

 

後述するが、確かに、ダイナミックな、骨太な物語ではないし、ミクロに大きな魅力があるかと言われるというと正直弱る。

 

色彩でたとえるなら、鮮烈な紅というより、それこそ桜の花びらのような淡い桃色と言わんばかりのキャラクター造形だ。記号的といってもいい。

 

それでも、この作品を、時間削って読んで損をした、と傷ついたままなのは、作品にも可哀想だし、この物語を堪能できないまま生涯を閉じるのも勿体ないと思う。

 

羹に懲りて膾を吹くではないけれど、以前ネットで、時間価値の落差についてたしなめられたことがあったから、ペトロニウスさんに直訴することは躊躇われる……まあ、直接言うんじゃなくてセミパブリックな自分の敷地で言う分には……構わないよね? ネチケットを体系的に学べるところがあればいいのだけれど……

 

 

さて、この作品の見どころ――それは断じて天才の描かれ方にあるわけでない。

 

鴨志田一氏の作風*2のひとつに、「天才と凡人の対比、ひいては才能を題材に取り上げる事が多い。」*3が挙げられているが、実際は、肝心の天才に関して、奇行は目立つが凄みに欠ける、と評さねばならないだろう。


たとえば、森博嗣真賀田四季野崎まどの登場人物、『SWANSONG』の尼子司、『ハチクロ』のはぐちゃんを並べてみれば、その天才性が霞んでしまうのも頷ける。そこに『どんちゃんがきゅ〜』の佐藤俊夫を挙げてもいい。

 

 

すべてがFになる THE PERFECT INSIDER S&M

すべてがFになる THE PERFECT INSIDER S&M

 

 

 

know

know

 

 

 

ハチミツとクローバー (1) (クイーンズコミックス―ヤングユー)

ハチミツとクローバー (1) (クイーンズコミックス―ヤングユー)

 

 

 

 

さくら荘のペットな彼女〈5〉 (電撃文庫)

さくら荘のペットな彼女〈5〉 (電撃文庫)

 

 

彼ら彼女らに比べれば皮相的な天才だーーそう言いたくなるのもわからないではない。真賀田四季が〈強い天才〉だとすれば、この作品に出てくる天才は〈弱い天才〉と言うことも出来るだろう。

 

たとえば、〈弱い天才〉を象徴するエピソードは、五巻の中で、登場人物のひとり三鷹仁によって語られる。


「そう、無茶苦茶だ。だから、あいつ*4はひとりだった。

 

でも、そんなひとりぼっちの宇宙人のことを、中学の担任がずっと気に留めていてくれたんだよ。

 

頭真っ白で、『仙人』って呼ばれてたじいさんの先生でさ。殆どの教師がさじを投げる中で、あの人だけは、最後まで美咲と向き合ってくれてたと思う。

 

スイコ―*5は、その仙人が勧めてくれたんだ。

 

『残念だが、上井草。この小さな街には、宇宙人であるお前の仲間はいないようだ。

 

だがな、この学校に行けば、地球に流れ着いたお前の仲間がいるやもしれん。この水明芸術大学付属高等学校を受けてみないか?』ってさ」*6

 

 

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

 

 

美咲の奇行は、言ってしまえばハルヒ的な承認欲求――私はここにいる――によって突き動かされた慟哭のようで、それを端から見れば、あまりにも痛々しく感じられるのは確かだ。

 

『他者など意に介するなど軟弱すぎる!   天才は強くあるべきだ』――そう見る向きもあるだろう。

 

『社会や常識といったハンマーに打たれてなお出つづける才能こそ素晴らしいものだ』なんて思想の人が不満に思うのは自然ともいえる。

 

が、そうではないだろう?

 

〈弱い天才〉だろうと天才は天才だ。

 

その才能によって産み出された作品は人類全体で共有した方が遥かに有意義なのでは、と僕は思う。

 

仮に、その作品が万人受けしないものであったとしても、〈強い天才〉では描けない風景がそこにあると、僕は確信している。

 

もしも、凡人エリートが天才様に出逢ってしまい、結果アイデンティティが崩壊していく辛さ苦しさを――圧倒的な才能の前に絶望し、屈するさまを観たいのなら、それこそ『SWANSONG』をやっていればいい。


しかしそうではないっ……そうではないのだ!


この作品の美点は、凡人の在り方なのだ!


淡々とした語り口だから、切実さが伝わりにくく、劇的な物語を好む人からすれば、一見退屈に思えるかもしれない。


けれど、そんなのは所詮、自己陶酔にすぎない。脳内麻薬に支配され、快楽に溺れているモルモットにすぎないのだ。


ーーしかしこの作品は違う。


さくら荘のペットな彼女』は、創作行為を通して、天才と付き合っていくこと――ひいてはコミュニケーションとは何か、ということが掘り下げられた傑作なのだ!


天才に頭を垂れるんじゃない。いかな天才だろうと彼らもまた人間なのだ。


福沢諭吉は云った。『天は人の上に人を作らず』と。


多様性を容認する社会――そのひとつである現代日本において、人は生まれながらにして等しく人権を持つ。


確かに才能にしろ環境にしろ、平等ではないかもしれない。*7

 

しかし、出る杭打つにしろ、頭(こうべ)を垂れて靴を舐めるにしろ、そんな生き方はあまりに醜い。


なればこそ。

 

天才と対等に付き合っていこうとすることは果たして傲慢だろうか?

 

ゆえに僕は断じよう。叛逆王の威信にかけて喚き散らそう。

 

この作品は傑作だ!

 

 

*1:http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110111/p2

*2:この作品は読みさしだし、他の作品は未読だからネットの受け売りになるけれど

*3:http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%B4%A8%E5%BF%97%E7%94%B0%E4%B8%80 ニコニコ大百科より

*4:ヒロインのひとり上井草美咲のこと。解説のためにwikiを見たらとんでもないネタバレを見た! 割と目立つように書かれてあるから、調べるときは要注意!!

*5:主人公たちの通う学校のこと

*6:現在、手元に五巻がなく、以前、書き抜いた文章をそのまま引用しているため、原作そのままの文章になっているか不安だが、大意はそれていないはず

*7:その格差をどう減らすかについては言及を避ける

Viva La Vidaは、ベートーヴェン『ハレルヤ』の対だ!

 

良い作品に出逢った時、僕は叫びだしたくなる。

 

この感情を、誰かに伝えたくて伝えたくてたまらなくなる。


友人に言ってもいいのだけれど、あまりに暑苦しいのか、相手から返ってくる反応は大抵芳しくない。そんな時、残念な気持ちになる。切なくなる。この気持ちを理解してくれる人は、この世に誰もいないのでは、と哀しくなる。


だから、仕方がないので、Twitterやら、このブログなんかに喚き散らして感情を吐き出している。


今回の場合はColdplayViva La Vida だ。

 

 

Viva La Vida

Viva La Vida

 

 

 

これは、なんと歓喜に満ちた歌だろうか。


ベートーヴェンの『ハレルヤ』を想起させられるような素晴らしい曲だ。


苦しみを引き受け、それでもなお人生を肯定してみせるその力強さに胸を打たれる。


言い方は悪くなるが、呑気に生きてるだけじゃ分からない生の歓びが、ここにはある。


かっこいい生き様、というのはたくさんあるだろう。
しかしかっこいい死に様というのはそう多くない。


天国から使いが来たかのような鐘の音、
力強い裏拍のバスドラ、
そして何より、ルサンチマンからでは発されること能わない歓喜に満ちた力強いボーカル!


後半の彼を見よ! なんと力強い雄叫びだろうか!


それでも、どこか物哀しいのは、きっと彼が天国に行けないから。


しかし!


この歌は、〝それでも〟生を、そして死を受け入れている!


諦観ではない。納得しているのだ、肯定しているのだ!


『ハレルヤ』が生きていくための意志を奏であげた楽曲だとすれば、
Viva La Vida は死の間際、人生と……その終わりを肯定する曲なのだ!


あぁ、なんという人間讃歌……なんという人生礼賛だろう!!!

 


どうかあなたも、この曲を聴いてみて欲しい。

同情すべきか否か:同情という優しさ

 

いくつか思考しているテーマがあるけども、 その中でもこの問題は、自分の中で消化しきれていないものだ。

 

というのも、〈震災後ゲーム〉の傑作『CHAOS;CHILD』 の中で百瀬という人物が、

「舐め合いかどうかはともかく、私は、 同情って優しさだと思ってるわよ」

という発言をしていて、 それが僕の胸に引っ掛かって、留まり続けているからだ。

 

 

CHAOS;CHILD - PS Vita

CHAOS;CHILD - PS Vita

 

 

 

僕は、ニーチェ由来の「同情の禁止」という価値観が脳裏にこびりついていたから、同情否定派だった。

 

けれど、この台詞を聞いた時、『同情も良い物なのかも……?』と価値観が揺らいだ。

 

だからこそ、同情の是非についてきちんと思考しなければ、 というのが今回のエントリ。

 

 

ーーーくだんの台詞によって、僕の中に残っていたしこりを取り除くべく、思考していたのは近辺だと二か月ほど前だったろうか。

 

ニーチェ どうして同情してはいけないのか』という書籍を読んだ。

 

 

 

 

ツァラトゥストラ (中公文庫)

ツァラトゥストラ (中公文庫)

 

 

 

なぜ『 ツァラトゥストラ』が難しいのかわかったから収穫だったけど、肝心の「どうして同情してはいけないのか」 ということに関しては、 納得のいくロジックを読み解けなくて残念に思っていたように記憶している。

 

そこからさっきまでの二ヶ月間、特に進展はなかった。

 

が、アダム・スミスの『道徳感情論』関連で調べていたら、今まであったピースが一気に繋がった。

 

 

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

 
道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)

道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)

 

 

 

それは果たしてどこから語るべきか……

そう、まずは強者の思想からだ。

 

同情に関して、ニーチェの超人思想と並行して、サド的な解釈もあり得ると思う。

 

つまり、『同情とは自己愛に他ならず、 そこにいったい他者はいるのか?』ということだ。

 

サドの作品には他者などいない、 と批判されることがあるようだけど、他者など理解しえない、 という冷徹なリアリズムを追及すればこそ、 容易に他者など描けないことは至極まっとうな意見のように思われる。

 

しかし、 強者のロジックばかりに耳を貸すのはバランスが悪いだろう。 誰しもが強者でいられるわけではない。

 

だからこそ、 その困難性に抗おうとする超人志向者に僕は尊敬の念を抱かずにはいられない。

 

けれども、その 一方で優しさの思想があってもいいと思うのだ。

 

が、その「優しさ」というものが曲者で、 その問題の核にあるものは、「自己と他者、そしてそれ以外」 の線引きだ。

 

ウチとソト、と言ってもいい。

まず、人間と認め得るものはその「ウチ」 にあるものだという前提がある。

 

人の度し難い業ではあるのだけど、「ソト」 にあるものに対して想像を巡らせる、 というのは余程意識しなければ難しいことだ。

 

根深い差別意識もこれに起因すると見て間違いない。

 

 

同情に話を戻そう。

上に引用した「同情って優しさだと思う」ということについて……

 

強者のロジックからすると、同情というのは欺瞞であり偽善だ。

 

ハガレンよろしく「やらない善より、やる偽善」 と反論してもいいのだが、それでは平行線だろう。

 

 

 

 

愛という名のもとに DVD-BOX

愛という名のもとに DVD-BOX

 

 

 

 

 

 

残念系ラブコメの傑作である『はがない』で、 同級生達に絡まれている小鷹を 「弱いものいじめをするな」 と夜空が助ける場面がある。

 

そこで小鷹が感謝するとは思いきや、「俺は弱いものじゃない」 と逆に殴られてしまい、殴りあいの喧嘩になるのだが、 これこそ偽善の典型的な例だろう。

 

「虐げられている弱者を〝救う〟ことは正義である」 というのは一見正しそうなロジックに思えるが、 〝彼ら〟が助けられることを望んでいないということもある。

 

かつての文化人類学者が〝野蛮〟と見下して、 自民族中心主義的に〝未開主義〟だと断じた誤りにしろ、

 

新宗教の〝被害者〟を〝救おう〟とすることにしろ、

 

「救おう」とするその偽善こそが、 被救済者に傷を与えることもある。

 

心理学的な視点から、ニヒリスティックに見るのなら、 アンダードッグ効果というのもある。脳内の化学反応に騙されているのなら、同情などという〝感情〟にーーいや、〝感情〟そのものに価値を求めること自体、不毛ではあるまいかーー

 

………………

…………

……

 

 

ここで再び問おう。

 

 

―――同情という優しさは果たして悪なのだろうか?

 

ここで、エンパシーとシンパシーという言葉を持ち出してみたい。

 

いくつかの本やサイトを参照した中で、 端的にまとめているブログがあったので引用すると、

 

エンパシー(共感)とは、実際に、 打ち明けている人がいる暗い場所まで降りていって、「 それは辛いね。私もそれがどういう気持ちなのかよくわかるよ」 と言うこと。

 

シンパシー(同情)は、その人と同じレベルに降りていかず、 上から目線で「えー、可哀相」と、 あくまで自分には関係ないというスタンスを取っていることを指します。

 

http://japanese.yukaripeerless.ca/2016/02/empathy_sympathy/

 

「エンパシーとシンパシーの違いとは」

『縁もゆかりも Everybody Else Is Already Taken』より

 

おそらく、ニーチェが否定しているのはシンパシーで、優しさのある〝同情〟とはエンパシーのことなのだろう。

 

僕は見ていないのだけど、かつて放送されたドラマで『 同情するなら金をくれ』という台詞があったらしい。

 

魚の釣り方を教えず、魚だけ与える行為の是非はともかく、「可哀想」と〝あの〟視線を向けられるより、金をもらえることの方が確かに理にかなっている。

 

 

心の底から〝同情〟していようと、骨身を削る行為にしか、 相手の心には届かない。

 

言葉だけでは伝わらない。

 

感謝にしろ、 助けてあげたいって気持ちにしろ、相手の心にどう届くか、 ってことまで含めて考えなければ、 気持ちの共有なんて出来はしない。

 

 

人と人とは理解しえないものだ。

 

けれど

完璧な理解はできないにしても、一歩、 あるいは半歩でも歩み寄ろうとすることは無駄なことなのだろうか、無理なのだろうか?

 

いや、不可能だからこそ、『通じ合えた!』 って思えた時の感動は大きいのだろう。

 

 

しかし、それにはものすごくエネルギーが必要だ。

 

大切な人でさえ、それが苦痛だと思う時が……思ってしまう時があるというのに、 見ず知らずの、〝画面の向こう側〟 にいる戦災孤児たちにエンパシーなど抱けということに無理がある 。

 

だからボランティアするな、募金するな、ということじゃない。

 

それだけ、〈他者〉に対して思い巡らせることが難しい、 ということだ。

 

 

ーーーここまでで、エンパシーに価値があることは確認できた。

 

ならば、シンパシーはどうだろう?

 

その偽善は、誰かを〝救う〟だろうか。

その優しさは押しつけがましくないだろうか。

 

僕はここまで考えてみて思った。

 

偽善をするにしろ、血を流す覚悟を持てと。

 

無邪気な偽善は恥ずべきものだ。

 

魂を穢すことすらあり得るものだ。

 

肉体を傷つける以上に冒瀆的な行為だと、偽善者に気づいて欲しい。 切に願う。
 
 

 

 

 

 

 

友人が書いたエントリのコメント欄が不毛すぎて泣きたくなった件  

 

そのエントリは不謹慎ととられても仕方のないものを題材にしていたけど、 僕は精神の血によってしたためられた文章のように思った。

 

多くの人が顔をしかめるかもしれない内容だったし、 ある意味ネガティブなものでもあった。

 

でも、僕はそこに力強さを見た。優しさを見た。

 

だというのに、コメント欄と言えばあまりに不毛。

 

昆虫みたいな脊髄反射で書いてる人とか、 ゆるゆるなロジックの常識論かましてる人とか。

 

ここで罵詈雑言をまくし立ててもいいけど、まあ、 人格攻撃したいわけでもない。

 

でもさ、正論ってただの暴力だよね?

問答無用で反論許さないでしょ。

それって、体罰よりも時にはひどいんじゃないかな。だって体罰だったら、精神そのものは傷つけられない。それがトラウマになるってこともあるかもしれないけれど、肉体的な暴力に頼っている時点で、それは精神を束縛ないし支配できないと暗に示しているようなものだ。ゆえに、苦痛はあっても自由は残されている。魂を殺されずに済む。

 

だからこそ、その点から言えば、正論は否定を許さない分、体罰よりも悪質だ。

 

『自分の〝意見〟は正しいから否定しようがないだろう』と、優越感に浸っているんじゃないかと勘ぐってしまう。

 

しかも第三者から見れば、目に見える部分で悪いことをしてない分、正論を述べる人間に待ったをかけることもできない。実に卑怯だ。

 

 

ーーーくだんのエントリに話を戻すと、その書き方自体を批判している人もいたけど、 なんか意味のわからん茶化し方してたりと誠意が見られないのが癪だった。

 

書き方を問題視するのに、 当の発言者が言い方に気を遣っているようには思えない。 本当に不毛だ。

 

 

まあ、ネットなんて不特定多数の人間が見るわけで、 すべての人間に節度守れやーなんて言っても不毛だけどさ。

 

でも、熱量こめて書いた記事の反応が、 あまりにも不毛だと嫌になってくるよね、実際。

 

 

沈黙せざるを得ないものってのは禁忌について触れるな、 ってことじゃない。

 

明晰に語りうることができないもののについては、 ロジックによって導くことができないというだけのこと。

 

しかし、だからこそ、人は語らなければいけない。

 

こればかりは、AIに頼むこともできないことだからだ。これから先、代替するものが増えていくだろうが、この問題はヒトがヒトたるゆえんにすら成りうるものだと、僕は思う。

 

おそらく、その議論はすぐには終わらない。 もしかしたら永遠に終わらないかもしれない。

 

でも、それでいいのだと思う。 最善手を導き出そうとするからいけない。

 

語り続けることに、 意義がないわけじゃない。 答えを得ようとする過程で得られる何かこそ、 人にとって重要なものだから。

 

 

ーーーと、ここでひとつ、思考実験。

 

『幸福とは何か?』という命題から答えを導き出すひとつのアプローチとして、『死の間際について考えること』が有効なのではないか、 と僕は思考する。

 

すなわち、『死ぬ瞬間幸福だったと思える人生』こそが〝幸福な人生〟 なのか、

 

それとも、『死ぬ瞬間、生涯最大の絶望に見舞われるが、 その瞬間までは最も〝幸福な人生〟を送ることができるもの』こそ〝 幸福な人生〟なのか。

 

 

すこしややこしいが、 このどちらか一つの選択肢を選ぶとしたらあなたはどちらを選ぶだろうか?

 

僕は、どちらかと言えば前者のように思う。

後者は後者の苦痛があるように思うし、そもそも、自身の人生を肯定できる最期なんて、死にざまとしては最高の部類ではなかろうか。

 

……まあ、人それぞれだろう。

 

とはいえ、一つ目の選択肢を選んだとしよう。

 

すると、ここでさらなる問題が浮上する。

 

死ぬ瞬間幸福でさえあれば〝幸福な人生〟なのだとしたら、 『想像しうる限りの幸福の絶頂時、真っ先に死を選ぶべきではないか』 という思想に発展する可能性があるということだ。

 

無論この思想は、自分本位な考え方であるため、 社会的な倫理から照らせば悪と見なされるリスクがある。だから、 こちらの選択肢を否定する人もいるかもしれない。

 

そもそも、この二者択一が悪い、と脱臼してくる人もいるだろう。ではーーー

 

 

……とここまで書いてきたが、これ以上先の議論に進むと、 面倒なことになるからここで思考を止めておこうと思う。

 

ことほど左様に、〝語りえないもの〟 というのは容易に答えを出すことのできないものだ。

 

しかしだからこそ、人は語らなければいけない。 たとえ議論が長引こうと、対話をそこでやめてしまえば、 社会がよりよいものにはならない。

 

『いやいや、社会はよりよくしていく必要なんてねえだろ』 なんて反論もあるかもしれない。まあ、一理はあるかもしれない。

 

しかし、そういうひねくれものの意見であろうと耳を貸そうではないか。

 

なぜなら、多様性を肯定するということは、一見、 社会的に害悪に見えるものでも肯定すべきだと、 僕は考えるからだ。

 

その多様性の限界、閾値については各々の判断に任せるとしても、 『私が悪だと思うから許さない』 というロジックはあまりに幼稚だと思うのだが、どうだろうか。

 

 

少なくとも、『非常識だから』 という根拠だけで否定するのであれば、 民主主義の前提である言論の自由など塵芥も良いところだろう。

 

僕のスタンスとしては、『非常識』には『非常識』 なりの根拠がある、と信じている。

 

だから、ただ正論であるというだけで蹂躙する怪物ではなく、 対話とロジックで歩みよろうとする理性ある人間として、〝彼ら〟に歩み寄ることができないだろうか、と思うのだ。

 

決してそれは同調することではない。理解しあうことではない。

 

譲れないところを見極めて、互いに不干渉の領域を定め、 共存していくことだ。

 

理解できないものがあると理解すること、想像の埒外にあるものがあると想像することーーー

 

それこそが、多様性ある社会を構築するのに必要なことだと僕は思う。
 
 

 

トルネードの人を本気だして支援するよ!

 

まずはこれを聴いて欲しい。

 

 

https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct=j&url=%23&ved=0ahUKEwix5NaApKfTAhUKxrwKHTWGD7EQxa8BCBwwAQ&usg=AFQjCNF1sHlk2z9QIx28jtvfnGP_UlkifA&sig2=Pjyx7b61X10BxlmSy2XkbQ


はたしてお気に召しただろうか。

 

しかし、その印象はたった106分24秒で覆るッーー!

 

そう、トルネードの人がトルネードの人と呼ばれるに至った【伝説の始まり】のこの動画だ。

 

http://www.nicovideo.jp/watch/sm26649312

 

 

これを観て、少しでも面白いと思ったのなら、そのまま、睡眠時間を削ってでもみることを推奨する。

 

この動画を……このシリーズを通して見たとき、あなたは確信するーー

 

 

これは確かに伝説的な動画であったのだとーーッ!!

 

 

そしてシリーズ最終回をその目に焼きつけるのだ!*1*2

 

 http://sp.nicovideo.jp/watch/sm27078706

 

ここまでくれば、この曲の出だしが伝説の幕開けに相応しいものだとあなたは知っているだろうし、何より期待値を少しずつ、ボルテージを少しずつ上げていくこの曲のサビで

 

ウィーキャンビィラィアトーーーゥネイッ!

 

と流れたときに跳ねあがるテンションに、あなたは最大限の快楽を、脳内麻薬の大放出を体感するだろう!!!

 

そして、少しずつ治まるこの曲のテンションにある種の切なさすら覚えるかもしれない……。

 

謎の感動ーー

 

人はそう言う。確かに、よくよく考えてみれば、どうした感動したのかが分からなくなってくるのだが、あなたがトルネードの人の動画に捧げた時間は、それが惜しいと思えるほどに忙しい生活をしているのならばなおさら、きっとその感動は素晴らしいものになるだろう!

 

そして、サビが流れるたびに、ついついシャウトしてしまうくらいこの曲にゾッコンになるだろう。あなたが、

 

ウィーキャンビィラィアトーーーゥネイッ


と口ずさむことを夢見て、このエントリを締め括ることとする。

 

ここまで読んでくれてありがとう。


あなたのトルネード人生に、幸あらんことを!

 

トルネードは、いつもあなたの心にーーー

 

 

 

 

 

 

 

*1:この動画の後半、Yー03  ギガトルネード  という名前が出てきたらコメント表示をオフにすることを推奨する

*2:特別編もあるが、やはり最高のカタルシスは最終回であり、むしろ特別編は少し日をおいて、トルネード成分が不足してきたところで観た方がよろしい!

『蜘蛛ですが、なにか?』って知ってる?

 

と親友のNからLINEが送られてきた。

 

 http://ncode.syosetu.com/n7975cr/

 

僕もまだ読んでいないから、代わりにNの言葉を載せることで、紹介文に代えたいと思う。 

 

「女主人公だから敬遠していたけど、中々おもしろいよ。

最近はひたすらこれを読んでる。

概要としては、人外転生もので、俺の読んだ感じプロットは初期からしっかりしてる。

文章は雑なところがあるけど、面白いから是非読んでみて。」 

 

多少文章いじってはあるけど、意味合いとしては変わっていないはず。

 

ゴールデンウイークまでは身辺整理で忙しくなりそうだから読めないだろうけど、すすめてくれた彼の好意に報いるためにも、近いうちに読んで感想を上げたいと思う。   

 

 

 

追記:

 

このエントリを、下書きの状態からブログに上げる前にちらっと、『蜘蛛ですが、なにか?*1がどれくらいの話数あるか調べていた時です。

 

 

 

 

坂本ですが? 2 (ビームコミックス)

坂本ですが? 2 (ビームコミックス)

 

 

 

蜘蛛ですが、なにか? (3) (カドカワBOOKS)

蜘蛛ですが、なにか? (3) (カドカワBOOKS)

 

 

 

あれ?そういえばこのタイトル知ってるかも……ってもしかして、この前、親友におすすめしたのだっけ!?*2

 

と思った直後に見つけたのです。

 

 

蜘 蛛 VS 蜂

 

 

ーーーというサブタイを。

 

 

なんだよ蜘蛛VS蜂ってwww

いや、意味はわかるけどさ、シュールすぎるだろ!w

目次の時点で秀逸すぎます。

*1:タイトル的に、確実にあの作品の影響を受けている。そっちのタイトル?  いや、わかるでしょ?

*2:確か、ずいぶんと前に、漫画の広告を見て、『蜘蛛ですが、なにか?』って知ってる?  とおすすめしたような気がする……確かね。もし、親友に、僕がすすめたことを試されていたのなら僕は不合格に違いない